綺麗なひと

綺麗なひと

台湾へ旅行したので、とお土産をいただいた。
銅製の美しい栞と台湾烏龍茶。
お土産を下さったのはたいそう綺麗な人だが、
選ぶものも綺麗だなと感心しきり。

最近又読み返している岡潔氏の「春風夏雨」の栞に使わせてもらう。

 

岡潔氏の本はこの「春風夏雨」と「春宵十話」しか読んでいないのだけど、
読んでいると、こころが綺麗になる感じがする。いつも。
だから時々読み返す。

こころが洗われるようだ。
という言い方があるけれど、そうじゃなくて、
澄んでいくかんじでもなくて、
やっぱり綺麗になるという以外に言葉が見つからない。

書いている人の心が綺麗だということ?

てなことを綿が詰まったような夕方の頭で思う。

 

今朝読んだ「頭」というタイトルがついた文章の中に
教養について言及された箇所があった。

 

はいってきたもの(知識とか情報とか)を自分の中にとりいれる時、
認識し、意味がわかって、更に深くわかると感情にとりいれられる。

口から入った食べ物が咀嚼され分解され吸収されるように、
感情にとりいれられたものは素朴化されて、
脳の奥へ入ってゆき情緒としてたくわえられる。
そこからまた全身に配られるが、
一部は情緒として蓄えられて、それがだんだん深くなってゆく。
それが教養なのだと。

 

食べ物が肉体を作ってくれるように、
情緒も又その人の肉体を作るということか。



同じ食べ物を同じタイミングで同じように食しても、
吸収具合も発現具合も人によって違っていて、
皆が同じ肉体(健康体)になるわけではないように、
情緒として蓄えられるものも人それぞれだろう。

だから興味深いともいえるけど、
一体どうたくわえてゆけばよいのだろう。
自分では意識できないところで、
どんなふうにたくわえられていっているのか。

とりいれるものは、選択できる。

 

それにしてもはいってきたものが教養になるまでの道のりは果てしない。
得たものが、情緒としてたくわえられるところまでゆかないと、
教養でないとしたら、
自分の情緒の容量は相当少ない感じがするが、
証明してくれる計測器はないのだし、
とりあえず無闇に落ちるのはやめよう。

 

救いだってちゃんと書いてある。

 

創造についてですが、一日一日を心から生きるのは創造です。何も学術上の発見発明や、芸術上の創作ばかりではありません。

「春風夏雨」岡潔著 「頭」より

 

一日一日
きげんよくいきましょ
藤井あき乃