小さいということ
「ごきげんよう」と「彌榮」遊印の試作を繰り返し、
だいぶ最終地点がみえてきた。
どちらの印も「ちいささ限界印」と「少し余裕をもたせた大きさの印」とで、また迷う。
彫刻の細かさにこだわって、
こんなに繊細に彫刻できるんだぞ(私の腕前じゃあない。彫刻機の技量)、ということを示したいわけではなく、
小さければ小さいほどよい。と思っているわけでもなくて、
ほんのちいさな、ごくごくささやかと感じられるものにこだわっている。
気をつけていないと記憶にしっかり残らないようなものでも、
目の端や意識のどこかにわずかに残って、
それが少しずつ積み重なってゆくことの大切さを思う。
そして積み重なってゆくのは、あたたかく気分がよくなるものであることを願いたい。
誰かに向かう「ごきげんよう」も「彌榮」も、
私の中に常にたっぷりと横溢しているわけではないけれど、
あることは確かで、
それをのっけるものを作っている。
だからでっかいとだめなのだ。
嘘じゃないのに嘘っぽくなる。
同時に、
月に見立てて使うなら大きい方かな。
てなことを考えているのも現実だけど。はんやとしては。
今日はまだエアコンを入れずに過ごせていてほっとする。
早朝のひんやり感は待ちわびた秋。
感謝。
機嫌よくいきましょ
藤井あき乃